『ダックスフントのワープ』藤原伊織著(文春文庫)

時々インターネットで見るページで、ちょっとしたコミュニティ・サイトっぽいOKWebというホームページがある。会員になってわからないことや知りたいことを質問すると、同じ会員の中で知っている人が答えを書き込んでくれるというニフティのフォーラムみたいなところだ。パソコンや勉強に関する真面目な質問からちょっと気になるというレベルのものや、恋愛相談みたいなものまで、ジャンルはとにかく幅広く、見ているだけでもそれなりに面白い。
先日このOKWebの読書関係のコーナーに、村上春樹の小説が好きなのだけど、別の作家で似たような雰囲気の小説があったら教えてほしいという質問が掲載されていた。僕もちょっとした返信を書き込んだのだけれど、他の人が書いた回答の中に、この『ダックスフントのワープ』という小説をあげていた人がいて、興味を持ったのが本書を読むに至った理由である。あ〜、前置きが長い…。

さてさて、読んでみた感想ですが、確かに似てる。知らずに村上春樹の初期未発表作刊行なんていって読まされたら、その気になってしまうかもしれない。著者本人にとってもデビュー作みたいなものだから、意識したのかなという気もするが、僕にとっては好きな作家の雰囲気なのでなかなか楽しめました。といっても、おハナシそのものは、とっても悲しいものなんだけど…。

実年齢よりも精神的な成長だけがずっと早く、そのギャップがあまりに大きくなってしまった少女というのは、なぜかとても悲しい存在に思える。その存在自体が悲しいという気がする。子供の成長にはそういったアンバランスが生じやすいけれど、歳を取ることによってだんだんと均されていくものだろうか。自分が男だからか、同じような少年はどうかと考えると、どうも“小憎らしい”という感覚になってしまうのは何故だろう。オトナの女性から見たときにそうした少年はどう写るのだろうか。

話は逸れたが、そういう少女とその家庭教師となった僕(大学生)をめぐる物語だ。存在自体が悲しい少女が主人公である上に、物語も悲しいのだから、悲しさも二乗される。少女にとって普通にコミュニケーションをとれる相手は、その家庭教師だけなのだけれど、逆に家庭教師である僕にとってもそれは同じである。二人はひとつの象徴的な物語を紡いでいく中で、より深く閉鎖的なコミュニケートをしていく。あっけなく訪れる結末は乱暴と言えるほどに悲しく残酷だ。その前に精神的な救いは訪れるけれど、生命という実体が失われる悲しさは、精神的な救いでは埋め合わせがきかない。

村上春樹という人の小説の特徴について、僕は以前から感じていたのは、登場する人たちの距離感(精神的な距離感)の微妙さという特徴だ。親しくなっても決して必要以上に近づない微妙な冷たさ、別れてしまっても心の中にずっと留めておく微妙な温かさ……。そしてその微妙な距離感を心地よく感じることが、僕にとって村上春樹という作家の小説を特別に心地よく読む理由だった。他の作家が描く人物と決定的に異なるのがそこだと思っている。そして実に驚いたのだけれど、この『ダックスフントのワープ』という小説の中には、まさにその人と人の距離についての一説があったのだ。そこまでいけば、もう似ているとか、雰囲気が近いとかというレベルではなかった。

他に収録されている『ネズミ焼きの贈りもの』、『ノエル』、『ユーレイ』の三編とも、悲しい存在の少女(あるいはそういう少女時代を過ごした大人の女性)が描かれている、残酷で悲しく感傷的な物語。
さて、この文章の中で“悲しい”という言葉を何度使ったでしょう・・・。