『この三十年の日本人』児玉隆也著(新潮文庫)

たぶんもう絶版となっていると思うけれど、この本は僕にとってノンフィクションというジャンルに目を開かせてくれた本である。最初に読んだのはまだ僕が二十代の頃だったろう。感動した本だったので、たぶん誰かにあげてしまったようで、いつの間にか本棚からなくなっていたのだが、どうしてももう一度読みたくなり、数年前にインターネットの古書店でまた購入した。
“この三十年”とはもちろん戦後三十年のことであり、このノンフィクションが出版されたのは昭和五十年七月のことだ。この本を読むと、昭和という時代がどんな時代であったのかを色々考えさせられる。

むかし読んだ本をここになぜ書いているかというと、桜が咲くこの季節になると、この中に収められている“『同期の桜』成立考”という一編を思い出すからだ。
日本人は古来から花見という習慣をもっていたらしいが、その昔、花見の主役は梅の花だったらしい。僕自身の勝手な推測だけれど、ソメイヨシノが広まったのが江戸末期ということだから、季節的に梅の時期より多少暖かくなった季節にパッと華やかに咲く桜が、花見の主役に取って代わったのではないだろうか。桜の花がどうしてこれほど日本人に愛される(というか特別なものとされる)かというのも、おそらく“パッと咲いて、パッと散る”潔さと儚さというのを日本人が愛したからなのだろう。そしてその潔さと儚さという感覚が、戦争に行く兵士という存在を自らもそして送る側もが表現するのに相応しいイメージだったに違いない。
“『同期の桜』成立考”はこのあまりにも有名な戦歌が、誰の作によるものなのかを探していくというノンフィクションである。結局は色々な人が作者として浮かび、その歌詞にも色々なバージョンが見つかるのであるが、だれがオリジナルでどの歌詞が本当のものなのかは謎のままなのだった。著者は“時代”が作者なのだと締めくくる。そう締めくくられることが相応しい“潔さと儚さ”がいずれのエピソードにも秘められているからだろう。
昔も今も、桜という花を愛する気持ちは日本人に共通だけれど、その気持ちに込められる“想い”には、どんな変化があるだろうか。