『街道をゆく17』<島原・天草の諸道>司馬遼太郎著(朝日文庫)

冒頭の一文は次のようなものだ。

『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。』

ここから一気にに引き込まれてしまうのは筆が熱いからだろう。
その熱さの底にあるのは“怒り”“憤り”の感情だ。

理不尽なほど苛烈な年貢・租税の取り立てで、
“いずれ飢死するか、今戦って死ぬか”という、
全くに未来のない二者択一を迫られ、
反乱(一揆)を起こした島原・天草の人々のことを想い、
その要因を作り出した領主たちを容赦なく断罪する。

島原・天草の乱は、
歴史上はキリシタン弾圧による反乱、と理解されている。
しかし筆者は、その本質は宗教上の弾圧ではなく、
領主たちによる出鱈目な圧政にあったとする。
それらの土地を訪ね書き綴った文章は、
読むほどに痛ましい。

島原地方では、この出来事で、
3万人とも言うほとんど全ての住民が亡くなってしまった。
その後日本各地からその土地を求めて入植してきた人たちで、
新たな歴史が作られていったらしい。

つまりその迫害の歴史を根に持つはずの人々は
すっかり絶えてしまったということなのだ。
とすれば、その悪政を強いた張本人である
松倉氏の築城した島原城が、
その後復元され観光地となっているのも
ある意味ではうなづける事である。
 
 
私、実は歴史というジャンルが嫌いです。
前にも書いたが、限られた事実にのみ基づき
仮説と推論で組み上げられた過去、というのが
どうにも気に入らないのだ。
もちろんそれがどうしようもないことだとは判っている。

しかし、この本を読みながら思ったのは、
その限られた事実に基づいて、
こうだったのではないか、こうだったに違いない、
と、あとは自由な想像のもとに組み立て検証していく
歴史の“面白さ”のようなものだった。

そしてそこに欠かすことが出来ないのが
“地理”という要素だ。
本来、“歴史”と“地理”というのは、
切っても切れない一体のものとしてある、
ということをこの本を読んでつくづく感じたのだった。